一般に、クィア(あるいは非-規範)であることについては過剰に説明を求められる一方、「シスジェンダー/ヘテロセクシュアル」*1(あるいは規範)であることは説明不要なこととされがちです。これは(クィアの人々にとってのみならず)ほとんど全ての人々にとっていささかならず困ったことでろうということをこの頃考えています。*2そこで、少しまとまらないことどもになりますが、メモとして書いておこうかと思います。
例えば、「異性婚」を実践した人々がそこで何を経験したのか捉えるのは、私にとっては大理石のつるつるした壁にしがみつくような困難を伴います。ケア関係における恋愛/性愛の重みづけを低く見積もる傾向にあるAce/Aroスペクトラムの視点からは、「ヘテロセクシュアル」であるというだけで、同性婚をあくまで他者の権利の問題として捉えているにも関わらず、そのような自らの視点について探求が為されていないならば、それは極めて不可解なことに映ります。*3この点は、「ヘテロセクシュアル」の枠内でマッチングにおいてかなり奇妙な手法、つまり、セーファースペースを探しカミングアウトによって他者と繋がるのではなく、内輪向けのコードをそこら中にばら撒いて、それに反応する人々の間で巨大なクラスタを作るというやり方が長らく主流だったことと相関しているでしょう。このスタイルでやり取りされるのはコードの方で、経験の語りは不要になり、そのコストは外部の人々が負担します。フリーライディン!ですね。*4
私の聞き込みの範囲内で分かったことは、「人によって、『付き合う』の意味は違う」「しかし、自分にとっての『付き合う』の定義をはっきりさせている人は少ない」「多くの人は自分にとっての『付き合う』の内容は言葉にしなくても共有されると思っている」ということだった(年齢が上がったり時代が変わったりして、今はもう少し違うのかもしれないけれど)。
この説明を求められないという性質が有害さを示す極端な例が「家庭」なるものであり、そこでどんなに異様なことが起きていても説明の不要なこととして処理されてしまいます。それゆえそこで何が起きていたのかは、整理のつかない溢れ出すような語り(例えば「アブサロム・アブサロム!」(1936)のローザ・コールドフィールドの語り、シルヴィア・プラスや島尾ミホの著作において示唆されるもの)やホラー・超常の語り(例えば「モノノ怪」(2007)では怪異が専ら女性表象で描かれることを不可視化された女性への抑圧の暗示として捉える視点が全体を貫かれています)といった、クラックから湧き出す異物/異界として語られてきたきらいがあります。
重ねて語りを困難にするものとして、SNSについても書いておきましょう。人口に膾炙しているSNS上の(互いに関係し合う)二つの論法を挙げてみます。一つには、可能な限り交差性を”考慮しない“ことです。対戦型SNSにおいては友/敵を効率的に見極めることが何より大事だし、字数制限とインプレッションへの効率性を考えれば出来るだけ大鉈を振るった方がいいというニーズからは、交差性を意識しつつの語りはなかなか出てこれません。もう一つは、「加害を行う人間はコミュニティに受け入れない」という自明な前提⓪に以下の論法を付加したものです。
①:⓪のために真の〇〇*5を判別し、ゲートキープしなければならない
②:私たちには真の〇〇を判別する認識的特権がある
いくらか異同はありますが、基本的にはこの手の論法が汎用的に流布し、日本でもアメリカでも現実政治を動かし、多くのlifeを危険に晒しています。これら二つの論法では全体として本質主義が大いに尊重され、説明についての不均衡な構造はそこによく噛み合います。例えば、そういった場所でひとりのオタク*6としての経験とひとりのクィアとしての経験を繋ぐのは困難を伴うでしょう。自己と記憶は良い説明をあたえられないまま放置されます。
ところで、私のオタクとしての原点を振り返って考えますと、サンリオのオタク向け作品*7だとか、フォア文庫・青い鳥文庫が先鞭をつけ、つばさ文庫(2009年創刊)・みらい文庫(2011年創刊)が進展させたライトノベルとのスリップストリームだとかに出会ったことが挙げられると思います。*8そして最近の作品に目を向けると、サンリオが「まいまいまいごえん」(2021~)で神経的・身体機能的・恋愛指向的マイノリティを描いたこと*9、つばさ文庫が「四つ子ぐらし」(2018~)、「ふたごチャレンジ!」(2021~)といった規範の外に在る家族・ジェンダー、そしてケア実践を描いた作品群を出していることを、私はひとりのオタクとして心から嬉しく思いますし、再生産され続けている規範の外部を思い出させてくれます。*10ここには語り直しの希望があるのではないかと思います。
話が散らかってしまいました。言いたいことは二つ。第一には、強要される語りの(二元論的な!)フォーマットに対し、常にその外部があり得るということ。第二には、誰も説明を無理強いされるべきではないというのを前提とした上で、(私個人について言えば)Gender Dysphoriaが"無い"とはどのような経験なのか、Sexual Attractionが"無い"とはどのような経験なのか、それらはオタクとしての経験とどう関わり合う/合わないのか、交差する経験の中で考えることは有益であろうということです。
*1:鉤括弧は一つのアイデンティティとしてのシス/ヘテロではなく、無徴化されて外部からは「沈黙したつるつるの壁面」に見えるそれらを指示するためにつけています。以下同様。
*2:とりあえず、私は少し困っています。
*3:無視されがちな点ですが、そのような探究実践を為している人を取りこぼさないために、ここの記述において下線部は不可欠だと思います。そしてまた、この文章にもいくつもの注釈が不足しているでしょう。
*4:ところで、これは少し楽観的すぎるのかも知れませんが、対人恋愛/性愛のゾーニングと合わせてこの枠組みの解体は着実に進んでいると思っています。医療業界のような保守的な産業分野はともかく、現代の一般的な職場では職場恋愛を実践しようとすれば白い目で見られるでしょう(恋愛への参加の同意を取っていない人を巻き込む可能性があるので)。マッチングアプリ婚の主流化は、恋愛/性愛への参加の同意に基づくマッチングへの移行を示唆します。
*5:ここには日本人とかアメリカ人とかクィアとかオタクとか、私の確認した限りでも、およそなんでも入れられています。
*6:これは今考えたことですが、ひとりのオタクってquirkyaloneですね。
*7:多分、あなたが想起したのより古い作品です。
*8:他にもいくつかあるのですが、まあ長くなるので。
*9:もっとも、同作が描く苦しみとしてはもう少し抽象的な話をしているのですが。ここは長所にも短所にもなっているでしょう。本来ケアを提供する側の保育士である岡田が、過去のトラウマからそうなりきれていないことをもって大人になりきれないという全体を貫く描写は、成熟についての規範を組み直す描き方でありつつ、同作の視点を繋ぎ合わせるものとして読解できるかも知れません。



























サクラは正統派主人公のイメージです。白髪に紫の衣装だとなんか強化フォームっぽいですね。



